2017年6月3日土曜日

80歳で20本の歯を残そう!

口の中の定期点検とクリーニングというメンテナンスのために、歯科医に通う人が増えてきた。長年、虫歯や歯周病など、何か問題が起きた時に受診する人が多かったが、歯を守っていくためには、それだけでは不十分だという認識が広がっている。とはいえ、まだ、習慣にしていない人も少なくないので、歯科メンテナンスの意義をおさらいしておきたい。歯に問題が起きてから歯科に行くのは、歯を失う道と言わざるを得ない。小さな虫歯なら、ちょっと削って詰める。深く進んでいたら、神経まで取ってクラウンをかぶせる。治療した詰め物、かぶせ物の寿命を調べた岡山大学の森田学教授(予防歯科学)の研究がある。平均すると、10年もたない。詰めた物 が外れる、かぶせた クラウンの下が虫歯になる、根の下に病変ができるといったトラブルが発生するからだ。この研究は10年余り前のもので、その後材料や接着剤などが改良され、もっともつようになった可能性はあるが、治療をすれば大丈夫というわけではない点に変わりはない。虫歯をつくるミュータンス菌や歯周病菌は、口の中で容易に増殖する。歯磨きやフロス(糸ようじ)、歯間ブラシで細菌や食べカスを取り除いても、取りきれない細菌が残る。また、歯は熱いもの、冷たいものという温度差にさらされ、食べ物をかむときに圧力が加わる。厳しい口内環境の中で、詰め物やかぶせ物と歯の間に隙間ができたり、これらの人工物が外れたり、傷んだりする。二次的な虫歯で再治療になれば、さらに歯は削られて小さく なる。神経を抜いた歯はもろくなる。歯の喪失に一歩ずつ近づいていく。こうした悪循環に陥らないため、日ごろのセルフケアや定期的な歯科メンテナンスが重要なのだ。日本人の多くが長年、「治療→再治療→歯の喪失」というサイクルを経験してきた。歯は上下合わせて28本あるが、厚生労働省の歯科疾患実態調査(2011年)によると、失った歯の本数は、50歳代前半の平均で2.6本、60歳代前半で5.9本、70歳代前半で11.0本になる。80歳の時に20本の自分の歯を残そうと、日本歯科医師会や厚労省は「8020」運動を主唱しているが、達成しているのはほぼ4割。80歳で残っている歯は平均で半数の14本だ。一方で、世界には「8020」を達成している国もある。歯科衛生の先進国と言われるスウェーデンだ。この差はなぜ生まれたのだろう。スウェーデンの予防歯科で知られる歯科医、アンダース・スコグルンドさんによると、1960年代末に歯科衛生士 の教育が 始まり、予防処置が行われるようになった。21歳以下は無料で歯科医療を受けることができ、幼いころからメンテナンスが習慣になっているという。22歳になると、メンテナンスに1回1万5000円程度かかるが、スコグルンドさんがいるカールスタッド市では、市民の9割が継続しているそうだ。治療費が日本の自己負担分と比べてかなり高いこともあって、予防重視の姿勢が徹底されている。それが残る歯の多さにつながっている。そんなスウェーデンに負けない予防歯科医療を実現しようと、昨年3月、東京港区に一軒の歯科診療所が生まれた。「日吉歯科診療所汐留」院長の熊谷直大(なおた)さん(37)は、「メンテナンスをしていれば、ほとんどの人が歯を失わないで済む。治療と違ってメンテナンスの後は、爽快感があって気持ちがいいので、頭を切り替えていただければ、もっと普及する」と意欲的に取り組んでいる。初診では、口腔内の写真や歯のエックス線写真を撮影し、歯周ポケットの深さや歯茎の出血、唾液に含まれる細菌、唾液の量の検査をして、口の中の状態を把握する。ほとんどの初診患者が虫歯や歯周病を持っているので、治療をしてからメンテナンスに移る。メンテナンスの頻度は3 か月に1度。担当の歯科衛生士が1時間かけて、口内のチェックとクリーニング、歯を強くする高濃度フッ素の塗布、生活習慣や全身の状態の確認をし、記録とアドバイスをまとめる。画像やコメントは、インターネットで確認することができる。熊谷院長は新潟大学歯学部を卒業後、米国のタフツ大学大学院に進み、資格要件が厳しい米国歯科補綴(ほてつ)ボード認定専門医の資格を取得した。補綴とは、かぶせ物や入れ歯を専門にする分野だ。治療の専門資格を持つ熊谷院長だが、自分の診療所で実現したいのは、治療を必要としない予防歯科。「メンテナンスで歯を守れる」と言い切る自信は、父が積み上げ、自分も引き継いできた実績があるからだ。熊谷院長の父の崇さんは、山形県酒田市の「日吉歯科診療所」で、メンテナンスを基本にする歯科診療を37年前から実践してきた日本の予防歯科のパイオニア。酒田市の人口は約10万5000人で、そのうち約1万人のメンテナンスを日吉歯科が担っている。20年以上メンテナンスを受けている人が失った歯は、全世代で平均0.9本。5歳以前から通う人の80%は20歳まで虫歯がゼロ。親子3代でメンテナンスに通う利用者も多い。直大さんは米国から帰国した2009年から、父とともに酒田で診療をしてきた。詳細な診療データを蓄積しており、メンテナンスを徹底することで歯を守ることができるのは実証済みだ。父の実践は、NHKの「プロフェッショナル―仕事の流儀―」(2014年10月放送)やテレビ東京の「カンブリア宮殿」(16年1月放送)で取り上げられ、大きな反響を呼んだ。メンテナンスのためにわざわざ東京から酒田まで通う患者も現れた。そこで、「酒田でやってきたことを東京に輸出して、国際標準のメンテナンス歯科を日本で確立したい」と、東京に予防歯科の拠点診療所を開業したのだ。東京の診療所でもメンテナンスは自費診療。1回1万5000円(1時間)を設定している。それでも開業から1年で800人余りが受診し、500人がメンテナンスに移行した。日吉歯科汐留の診療は口コミでも広がり、患者は日に日に増えている。メンテナンスへの関心は広がっている。このように日本でもメンテナンスのために歯科に通う人は増えている。長年、普及しなかった理由のひとつは健康保険制度にありそうだ。比較的少ない自己負担で医療を自由に受けることができる日本の健康保険制度は優れた制度だが、歯科では必ずしも良いことばかりではない。健康保険は病気やけがの「治療」を保険でカバーするもので、「予防」は対象にならない。だから、治療後の歯科メンテナンスは、本来、自費負担になる。人間ドックと同じである。「保険でメンテナンスやってもらっている」という人もいるだろう。その場合、虫歯や歯周病の治療などの名目で保険扱いにしているのが実態だ。国は一昨年、虫歯や歯周病に罹患(りかん)していない場合、「予防処置に保険給付しない」という見解を改めて公表している。それを受け、自費に移行した診療所もあるようだ。歯周病は成人の8割にあり、口内のクリーニングは「治療」項目のひとつ。歯周ポケットの検査や画像診断は保険で可能だ。しかし、歯周病はきちんと治療をすればほとんどの場合は治るので、治療として予防診療を行うことの不適切さは否めない。歯科医としては、メンテナンスを行おうとすると、自費受診を患者に理解してもらうか、健康保険上の“綱渡り”をするかという壁に突き当たる。そうした歯科メンテナンスのポジションが普及のブレーキになってきた。健康保険は治療を後押しする制度でもある。提供した医療に対してお金が支払われるので、削って詰めてかぶせるという作業を多くこなすほど収入が増える。患者にとって最良の診療を心がける歯科医も多いに違いない。しかし、保険上の個々の治療単価の設定が比較的安価なこともあって、短時間で多くの歯に手を加える方が経営の安定につながる面がある。一度治療が必要になると、歯の喪失へのサイクルに入ってしまう。日本とスウェーデンで残る歯の数に差がついているのは、治療中心の制度と、予防を重視する制度をそれぞれ作った国の違いのようだ。とはいえ、日本でも残る自分の歯の数が年々増えているのは喜ばしいことだ。6年に一度行われる歯科疾患実態調査によると、80歳の残歯数は2011年は14本だが、その前の2005年の調査では10本だった。今年の調査ではもっと増えていることだろう。歯科メンテナンスを国民全員のものにするため、どのような制度を作ればいいのか。その議論は置くとして、今のところ、メンテナンスを受けるには、自費での負担を受け入れなければならない。熊谷院長は言う。「美容院に費やす費用を思い浮かべてみてください。一生自分の歯を使い続けるために、3か月に一度、自費で歯科に通うのは、割の合わない負担でしょうか」口の中に細菌がはびこっていると、歯だけではなく、心臓血管疾患、糖尿病、リウマチ、認知症、肥満など、全身の健康に影響することがわかっている。高齢になって飲み込む力が低下すると、口の中の細菌が唾液とともに誤って気管に入り、誤嚥(ごえん)性肺炎を引き起こす。肺炎は80歳以上の主要な死因で、誤嚥性肺炎がその7割以上を占める。口内の衛生管理は、全身の健康や寿命をも左右する。そう考えると、歯科メンテナンスを習慣にしない手はない。
読売新聞より

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